第二ゾーン 古代国家の源流

■ 前方後円墳 ■

 日本で最も大きい墓は仁徳陵古墳である。
 少なくとも、墓の丘の大きさが、である。その丘は平面形が円と方という単純な形を組み合わせた前方後円墳。中でも、仁徳・応神陵の両古墳は特に大きいが、大王クラスの墓はおおむね200〜300m前後の長さで、4〜6世紀の間、築造が続く。
 この間、その単純な二つの図形のつながりは比率などを変えて細かく様々に変化する。
 墳丘は徐々に移り変わった。
 前方後円墳成立より前の弥生時代には、溝で四角く区画し、その中に人を埋める方形周溝墓という墓がふつう。墳丘へと取り付いた土橋状の通路が前方部に発達していく説が有力だ。その後期には前方後方形周溝墓がある。これから前方後円墳になるには大きさや、なぜ円になるのかを含めて、まだまだ飛躍がある。
 奈良県桜井市にある箸墓古墳は最古級のもので、275mの長さがある。正円に近い後円部は段築をそなえ、29mの高さまで土砂が盛り上げる。前方部は通路であったという説に説得力を与えるように、全体として低く、幅狭い。しかし、前方部の端が通路を切断するかのように高く盛られる。墳丘の表面には葺石が葺かれ、墳丘の各所に土器や埴輸が置かれる。  箸墓古墳から仁徳陵古墳に至るまで徐々に墳丘が大きくなったわけではない。箸墓古墳は平野部に近い比較的平坦なところに築かれたが、それ以降しばらくは丘陵部の地形を巧みに利用してつくられ、大きさには限界があった。それでも4世紀の間に、前方部側辺の直線化、三段築成、埴輪列、周濠といった墳丘の各要素が整えられた。
 4世紀の終わり頃には、古墳は平坦な台地の上に向かった。ここに至り、円と方はきれいな幾何学形をより忠実に描くことができた。藤井寺市津堂城山古墳は墳丘の大きさこそ大きくはないが、造り出しをそなえ、周囲に精美な盾形の周濠を、そして、水をたたえるよう堤をまいた。墳丘は後円部の径に前方部の幅の長さが近づき、前方部は増大した。この基本スタイルは5世紀の間続く。
   この間の最も大きい変化は前方部の増大。応神・仁徳陵古墳の頃には後円部と前方部の高さは等しくなる。これに伴って、周濠の前方部側も広がる。仁徳陵古墳は応神陵古墳より大きくするため、前方部の長さを長くし、二重堀から三重堀にした。この古墳の築造は墳丘増大のピークであり、終着点である。それまで各地域の古墳より大きくし、権力を見せつけるため墳丘は肥大させたか、おそらく、その必要がなくなり、別の支配システムを手に入れた。それでも、前方後円墳の時代は折り返したばかりで、それまでと同じ時間を費やして消滅するのだ。
 仁徳陵古墳に続く堺市ニサンザィ古墳は前方部の幅を後円部径の1.5倍にし、前方部増大傾向を強く示す。そして、周濠、外堤を含めた全体の長さ、幅は等しくなり、正方形区画の中におさまることになる。この古墳より後、おそらく中心埋葬施設が竪穴式石室から横穴式石室に変わり、これに適応すべく、周濠の空濠化も進む。また、台地土から丘陵上へとつくられる場所も変わる。
 大王クラスの前方後円墳は近つ飛鳥の磯長谷古墳群に移動し、用明陵、推古陵の両古墳が方墳へと変化して終わったことをつげる。



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